History

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きれい・ねっとのこれまで、そしてこれから



History01
プロローグ

はじめまして。
きれい・ねっとの山内尚子です。

わたしは幼いころから本が大好きでした。
特別たくさん読んできたというわけではないけれど
お気に入りの物語の様子をありありと想像して
時を忘れて空想に浸っているような
子供だったように思います。

そんなわたしが
物語の主人公も驚くような紆余曲折を経て
なんの知識も経験もない状態から
出版社を立ち上げることになったのは
2007年のこと。

それから約14年
出版社の代表、そして編集担当として
数多くの本を創らせていただくなかで
本当に多くの学びをいただいてきました。

いまでは様々なジャンルの書籍を
従来のやり方にとらわれることなく
多くの皆さまにお届けしているきれい・ねっと。

そんなきれい・ねっとは
なぜ、なんのために生まれ
いま何を見つめ、これから何を目指していくのか。

出版社を立ち上げることになった経緯も含め
いま現在に至るまでの波乱に満ちた学びの旅を
ここに綴ってみたいと思います。

時代が大きな変化を迎えているいま
わたしが歩んできた道のりが
きれい・ねっととつながってくださった
あなたのお役に立ったなら、
これほど嬉しいことはありません。

どうぞ少しのお時間
お付き合いいただけましたら幸いです。

History02
「世を照らす
灯台の光となりなさい」

1974年、春のお彼岸の頃
後に日本初の世界文化遺産となる
国宝姫路城の見える病院で
第二次ベビーブーム真っ只中、
いわゆる団塊ジュニアのひとりとして
わたしは産声をあげました。

幼稚園の頃に父が脱サラし
バブル全盛期、ネオン輝く繁華街の真ん中の
祖父が建てたテナントビルの住居スペースで
母と一緒に小さな印刷屋さんを始めました。

それから事務所を借りるまでの10年ほどの間
わたしはお茶の間と事務所が一緒になった
ちょっと不思議な空間で子供時代を過ごしました。

早生まれで身体が小さく
小児喘息を持っていたこともあり
ちょっとしたいじめにも遭った小学生時代を経て
ひょんなことから
カトリックの女子校に6年間通うことになり
そこでわたしは初めて「信仰」という
目に見えない世界に触れることになります。

「世を照らす灯台の光となりなさい」

そのような教えとともに
キリスト教というよりは
聖書、そこに登場するイエスさまやマリアさま
さらにはマザー・テレサやコルベ神父といった
信仰のため、
他者のために命を捧げる人々との出逢いが
いまもなお、わたしの人生の根幹をなす
一筋のたしかな光となっているように思います。

History03
生きていくために
一番大切なこと

1995年1月17日、わたしが二十歳の時に
阪神淡路大震災が起こりました。
同じ兵庫県でも姫路には
ほとんど被害がなかったのですが
わたしは偶然友人と一緒に
神戸にいあわせたのです。

幸い、友人もわたしも無事でしたが
ほんのさっきまで平和の中にあった静かな家並みが
大音響とともに崩れていく様を目の当たりにして
今まで感じたことのないような衝撃を受けました。

いったいこれからどうなるんだろう
余震のたびに感じる恐怖
どこかに落ちていくような、途方もない不安……。

でもそんな時、避難場所になっていた小学校で
わたしの耳に力強い声が飛び込んできたのです。

「おばあちゃん大丈夫か?
遠慮はいらんからここに座って」

「お医者さんもうすぐ来るからな。がんばろうな」

それは、
ほとんどがレスキュー隊でも警察でもない、

ごく普通の人たちの声でした。
おそらくみんな、家も仕事も失っている。
大切な人を失った人だって、たくさんいたと思う。

そんな苦境の中で、家族でもなんでもない
たぶん知り合いですらない人たちが、
ごく自然に声を掛け合い、助け合っていました。

「大丈夫、わたしは一人ぼっちじゃない」

気がつくと、涙がぽろぽろと流れていました。

それはもちろん
わたしにかけられた声ではありませんでした。
けれどわたしは、
いえ、わたしだけではなく
あの場にいたたくさんの人々が
間違いなくあの声に助けられていました。

短い文章の中で
とても伝えきれることではないのだけれど
運にも恵まれ、今、こうしていのちを長らえてみて
生きていくために
何がいちばん大切なのかと問われたなら

わたしはあの優しくも力強い声だと伝えたい。

寸断された道路で、
お互いが滑らないようにと支えあった
見知らぬ人の手のぬくもりだと伝えたい。

今となっては名前も顔も分からない
恩人である声の主に、
直接感謝を伝えることはかなわないけれど
今度はわたしが、真摯な生き様で、
言葉で、伝えて続けていきたいと思っています。

「大丈夫、あなたは一人ぼっちじゃない」と……。

History04
必要な学びと幸せな日々

バブルが崩壊し、
しかも阪神淡路大震災の影響もあって
兵庫県に住んでいたわたしたちの就職活動は
超氷河期と言われる中でも
ひときわ厳しいものとなりました。

そこで一念発起したわたしは
通っていた短大を辞めて専門学校に入学しなおし
日商簿記や秘書検定等、
取れる資格を片っ端から取得
難関の情報処理技術者試験にもクリアして
地元の優良企業にシステムエンジニアとして
就職することができたのでした。
(今生でいちばん勉強しました、笑)

黒い画面に緑の文字だったパソコンの世界に
ウィンドウズが少しずつ広がってきた頃
そして西暦2000年になると
パソコンが誤作動するとされた
いわゆる2000年問題が取りざたされている頃で
今でいえば完全にブラックな職場でしたが
充実した学びの多い日々を
過ごさせていただきました。

そして1998年、春のお彼岸の頃
中学1年生の時に出逢い、
高校1年生の時からお付き合いをしていた
パートナーと結婚し
わたしは初めて姫路を離れ
外資系の企業に勤めるパートナーの転勤に伴って
香川、愛媛、そして高知へと
住まいを移していくことになります。

2000年には、身体があまり丈夫ではなく
医師からは難しいだろうと言われていた
子宝にも恵まれて
楽しく幸せな毎日を送っていたわたしたちに
どうしようもないほどの
大きな変化が訪れたのは、
本当に突然のことでした。

History05
すべては一編の詩から

前日まで元気だった最愛のパートナーが
自宅で突然倒れ、そのままこの世を去ったのは
2004年2月22日、
冷たい雨の降る冬の朝のことでした。

彼は34歳、わたしは29歳、一人息子は3歳
そのとき、わたしたち家族が
当たり前に思い描いていた未来予想図は
すべて実現不可能になりました。

人間というものは、どんなことも
実際に我が身に起こってみなければ
自分のこととして考えるのは難しいものです。
人生、一寸先は闇というけれど
その闇の重みを本当の意味で知ったのは
この時だったかもしれません。

葬儀や引越しを終えて表面的には落ち着いたものの
まだ幼い息子の前ではもちろん
両親や周囲の人たちの前でも泣くことはできず
とにかくなるべく忙しくして日中をやり過ごし
夜になると小さな仏壇の前に座って
ひとり泣きとおすような日々を過ごしていた
そんなある時のことでした。

友人の勧めで始めたばかりのSNSミクシィで
ご縁をいただいた方から
「家族への手紙のつもりで
    詩を書いてみませんか?」と
声をかけていただいたのです。

書くことで何かが変わりそうな気がしたわたしは
ノートを一冊用意して
思いつくままに
パートナーへの想いを書いていきました。

すると、最初は穏やかな気持ちだったはずが

「どうして死んじゃったの?」

言っても仕方ない、聴いても意味がない
そう思って
ずっと口にせずにきた言葉を書いたとたん
我慢していた想いが
堰を切ったようにあふれてきたのです。

どれだけわたしが辛いと思っているの?

子供を抱っこしたまま一人で救急車を呼んで
会社に電話して、葬儀屋さんを探して……

どんなに心細かったか、
どんなに怖かったかわかる?
仕事の当てもないわたしが、
ちっちゃい子供を抱えて
これから一体どうやって生きていけばいいの?

まぶたが腫れ上がるほど泣きながら
わたしは彼に向かって悪口を書き続けました。

History06
すべての過去は
かけがえのない宝物

何も思いつかなくなるほど
文句や悪口を書き連ねたあと
ふと我に返ったわたしは愕然としました。

突然襲ってきた死に
いちばん怖い想いをしたのは彼なのに
わが子を抱きしめることができなくなって
いちばん辛いのは彼なのに
反論すらできない彼に向かって
わたしはなんてひどいことを思っていたんだろう。

ごめんね、本当にごめんなさい。

ひとつひとつの言葉の後ろに
「ごめんなさい」と書きました。

ずいぶん時間がかかりましたが
すべてに「ごめんなさい」を書き終えると
不思議なことに
こころの中の霧が晴れたようになって
今までと違う景色が見えてきました。

出逢ってから別れるまでの十数年間
楽しいことがたくさんありました。
息子という
新しいいのちを授かることもできました。

すべては彼がいてくれたから。

楽しかった思い出を
思い出せる限り、ひとつずつ書きました。
自然に「ありがとう」という言葉が出てきました。

久しぶりに彼の笑顔が、
こころの中に広がりました。
幸せな時間でした。

そうしてすべてを書き終えた後
「わたしたちには愛があるんだ」そう思いました。

人は一人で生まれて、一人で死んでいく儚いもの。

けれど、何も残らないわけじゃない。
いのちを連綿とつないでいくのは
いのちの度に重ねられていく「愛」なんだと。

「愛しています」

それは彼とのすべての思い出が
わたしのそれまでの過去が
かけがえのない宝物になった瞬間でした。

一編の詩を書いた、たったそれだけのことで
わたしのこころの在り方は180度変わりました。

そしてそれは、こころの中だけにとどまらず
その後のわたしの人生すべてをも
大きく変えていくことになったのです。

History07
舩井幸雄先生との出逢い

その後、ありえないような偶然が重なって
経営指導の神様とも呼ばれた
稀代の経営コンサルタント
故・舩井幸雄先生とご縁をいただいたわたしは
先生のご自宅のある熱海で開催されていた
月に一度の勉強会に
息子を連れて参加するようになりました。
(詳しくは
拙著『やさしい魔法ホ・オポノポノ』に)

平凡な主婦だったわたしにとって
経営、生き方、そして目に見えない世界のお話は
鮮烈な学びとなりました。

詩に書いた
「ごめんなさい、ありがとう、愛しています」を
同じように大切にするハワイの叡智
「ホ・オポノポノ」を
最初に教えてくださったのも、舩井先生でした。

幼い息子を抱えて
この先何をどうして生きていけばよいのか
不安でいっぱいだったわたしにとって
ここでの学びはたったひとつの希望の光でした。

成功の3条件「素直、プラス発想、勉強好き」を
実践しようと
貯金を切り崩して新幹線代を工面し
勉強会ではとにかく一生懸命メモを取り
先生の勧めてくださる書籍は
すべて読破したものです。

経営者の方がほとんどの会場で
子供連れのわたしは
少し目立っていたのかもしれません。
パートナーを亡くしていることを知って
応援してくださるお気持ちも
手伝ってのことでしょう。
お返事を期待することなく
感謝の気持ちを書き綴ったお手紙を送ったところ
先生から思いがけずお返事をいただき
以降、文通のようなかたちで
折に触れてファックスやお葉書を
送ってくださいました。

そして、そんなお手紙の中の

「あなたは文章が上手いから、本を書くといい」

その一文がきっかけとなって
わたしは素直に原稿を書き始め
どうせなら両親の印刷会社で印刷してもらおう
それならば出版社を創ろうという流れとなり
ついに「きれい・ねっと」を
設立することになったのです。

余談になりますが
わたしは舩井幸雄先生の
多くの輝かしい功績については
勉強不足で何を語る資格もありません。
わたしにとっての舩井幸雄先生は
お手紙の最後に必ず
「坊やによろしく」と書き添えてくださる
笑顔が素敵で、どこまでもお優しい大恩人です。

History08
東日本大震災がもたらした
変化の中で

出版社をはじめた当初のきれい・ねっとは
主婦の方や学校の先生、地域の医療関係者など
発信したいことのある方の
自費出版的な本創りが中心でした。

「みんなが主人公」を合言葉に
大きな費用の負担がなくとも
誰もが表現を楽しみ、広げることができるよう
少部数の印刷に強い
オンデマンド印刷を取り入れたり
流通しなくても多くの方に読んでいただけるよう
ネットショップによる直販もスタートさせました。

約10年間で55回もの企画・開催を続けた
「なおちゃん流ホ・オポノポノ」によって
詩を創り朗読するワークショップや
本を創った人たちの
講演やコンサートなどを楽しもうと
約10年間で55回もの企画・開催を続けた
朗読会「こころの宝物」は
集う人たちにとって心に響くものであると同時に
わたし自身の表現力を
鍛える場ともなったように思います。

そうして少しずつ活動の幅も広がってきた
2011年3月11日、東日本大震災が起こります。

多くの方にとってそうであったように
この震災はわたしを大きく揺さぶり
その後の生き方を
大きく変えるきっかけとなりました。

大きな災害が日本を襲ったというだけではなく
舩井先生をはじめ多くの先生方が予測されてきた
限界を迎えている資本主義社会の崩壊と大激変が
いよいよ始まったように感じられました。

より多くを求めて、比較したり争ったりしていては
わたしたちを生かしてくれている地球は疲弊し
誰ひとり幸せに生きることができないのは
もはや明らかなこと。

世の中が変わることを待つのではなくて
わたしたちから生き方を変えて
できることから始めていかなければ……
そんな強い想いが
湧き上がってくるようになったのです。

History09
新生地球の歩き方を示すこと

理学博士の故・川田薫先生とご縁をいただいたのは
東日本大震災の翌年のことでした。

わたしよりちょうど40歳年上で小柄な先生
でもご講演されるお姿は
とても若々しくエネルギッシュで
ミネラル(鉱物)研究の
第一人者としてのご活動の中で
どうしても
「魂」の存在と向き合わざるをえなくなり
世界で初めて「生命誕生実験」を
成功させたというお話に
わたしはすっかり引き込まれてしまいました。

科学者である先生がしてくださる「生命」のお話は
ともすれば荒唐無稽になりがちな精神世界に
しっかりと現実世界が
結びつけられていていました。

このお話を多くの方にお伝えしたいと心から思い
わたしは初めて自分から
「先生の本を創らせてください」と
お願いしてしまいます。
すると先生は、
どことも知れない地方の出版社からの申し出を
ニコニコとご快諾くださったのです。

川田先生の著作は初めての企画出版となると同時に
これまで文章の体裁を整える程度だったわたしが
初めて全面的に編集も
担当させていただくことになり
編集者としての第一歩ともなりました。

川田先生は
「ごめんなさい、ありがとう」という言葉を
ご真言のように繰り返すことで浄化を促す
「クリーニング」をとても大切にされていました。
また、弘法大師空海さまとご縁が深く
空海さまが大切にされた境界のない「空」の世界を
分かりやすく説いてくださいました。

後にミラクルアーティストはせくらみゆきさんと
川田先生とわたしの三人で高野山に出かけ
空海さまの軌跡をたどりながら
新しい時代の真相と生き方を楽しく語り合った
『新生地球の歩き方』
共著として発刊するのですが
発刊に合わせてみゆきさんに製作をご依頼した
きれい・ねっとのシンボルには
こんなメッセージが添えられていました。

「あなたとわたしとこの星と
        きれいでつながるよろこびの輪」

東日本大震災の時からずっと
わたしにできることはなんだろう?
と考えていたこたえが
そこにははっきりと示されていました。

自分たちの楽しみとしての表現だけにとどまらず
様々な違いや枠を超えて
広く多くの人とつながりあい学びあい
この星の愛あふれる新しい未来を
ともに創っていきたい
そのための言葉たちを本にしていきたい、
していこうと
わたしは本気で覚悟を決めたのでした。

History10
わたしという生命の望み

川田薫先生のご縁から空海さまと出会い
インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』
発刊する機会に恵まれ
他にも多くの先生方から神道、
さらには太古の人々が感じていた
森羅万象に宿る神性、宇宙の摂理を学び……
わたしは思いがけず公私にわたり
さらに深い「見えない世界」に
接するようになりました。

突然パートナーを亡くしたことで
人が生きていくこと、死んでいくことの意味を
求める気持ちを強く持つようになったわたしですが
いつしかそれは、
わたし個人という枠をはるかに超えた
学びや体験となっていったのです。

そんな中で舩井幸雄先生のご子息の舩井勝仁さん、
作家でヤマト・ユダヤ友好協会会長の
赤塚高仁さんと出逢い
兄弟のように仲良くしていただくようになったのも
大きな運命の流れであったように思います。

アジアの東と西の端に位置する
ヤマト(日本)とユダヤ(イスラエル)が
手をつなぐとき
調和に満ちた新しい時代が始まる……

考え方、生き方の全く異なるお二人とともに
伊勢をはじめとする聖地を訪れ、
イスラエルにも飛んで
争うことではなく認め合うことで
お二人の想いをひとつの形にしようと試みた
5冊の共著「聖なる約束」シリーズは
わたし自身の魂の成長をも促すものとなりました。

他にも、現役の脳神経外科医であり
脳の覚醒下(患者の意識がある状態)手術では
世界でもトップクラスの実績を誇る篠浦伸禎先生や
新進気鋭の理論物理学者、周藤丞治先生
そして、統合医療を行う獣医師であり
日本ホメオパシー協会会長、
クリアヨガ実践者でもある森井啓二先生など
医療や科学の最先端で活躍される方々が
小さなわたしを信頼し、
次々と原稿を預けてくださいました。

「見える世界」と「見えない世界」
物質世界と精神世界を分かつことなく
偏りなく大切にされている様々な分野の先生方が
多くの人の幸せのため、地球の未来のために
出し惜しみなく伝えてくださるご自身の叡智を、
意味を違えることなく、なるべく分かりやすく
言葉に変えて本を創り、
皆さまのもとにお届けすること。

すこし大げさかもしれませんが
それがわたしという
生命の喜びであり望みなのだと、
いまでは確信しています。

History11
充実した日々と
すり減っていった心身

ご依頼いただく出版には
大小関わらずできるかぎり応えたいと願い
編集からすべての作業にかかわるかたちで
何冊もの本を同時進行で創りながら
大きな出版記念のイベントや
自身の学びをアウトプットする
講座を企画開催する等々

よく言えば目の前のことすべてに一生懸命
悪く言えばいい格好ばかりで断るのが苦手
そんなわたしの仕事は年々増えていく一方でした。

一方でバブルの崩壊以降の不景気に加え
パソコンやプリンターが気軽に使える存在となり
さらにはネット通販による安価な印刷が普及して
小さな印刷物の需要はどんどんなくなり
地方の印刷業界は縮小の一途をたどっていました。

大きな設備投資が必須となる印刷会社にとって
この急激な流れは致命的なもので
まだ多額の負債を抱えていた両親の印刷会社も
売上の減少を余儀なくされていました。
そしてそんな中で
最初は多くの印刷物の中の
おまけ程度であったきれい・ねっとの本の印刷は
いつしかメインの収入源となっていたのです。

ただ、それでも
かけがえのない一人息子との時間だけは
どうしても大切にしたい想いが強く
たとえば小学校で
マーチングバンド活動をすることになった時には
夜なべをして大会のための衣装を縫ったり
6年生の時には
保護者会の会長まで引き受けました。

そんなすべてのことは
充実したすばらしい経験となった半面
心にも身体にも
大きな負担をかけ続けてしまったのでしょう。

やがて子宮筋腫が悪さをして、
出血が続くようになり
1年ほどかけて様々な自然療法を試したものの
芳しい成果はなく少しずつ貧血がひどくなり
ついに2015年9月
ほとんど意識不明の状態で救急搬送され
お医者様から
「いますぐ死んでもおかしくない状態」
とまで言われてしまったのです。

History12
生命の瀬戸際で体験したこと

意識を失ったわたしが経験したことは
ただの夢なのかもしれないし
いわゆる臨死体験と
呼ばれるものなのかもしれません。

ほんの一瞬前まで
身体を支配していた激しい痛みから解放されて
わたしの意識は
ただまっすぐに上昇していきました。

その先には
大きすぎて全貌は見えなかったものの
きっと球形に違いない
何とも言えない温かな光があり
その中心に近づくにつれて
不安や恐怖、悲しみは溶けるように消えて
なんとも言えない懐かしい感覚がやってきました。

わたしという存在は
ここから生まれここへ還っていくんだということを
瞬間的に、しかも当たり前のように理解した……
いえ、思い出したというのが正解かもしれません。

……と、そのときわたしの中に
チクリと小さな感覚が走りました。

「還ったら、もう戻れない」

そう気づいたのです。

生まれるときに自分と交わした
大切な約束をわたしはまだ果たしていないのに……

戻らなくちゃ

そう思った瞬間
ドンッという感覚とともに
わたしの意識はわたしの身体へと再び戻りました。

出血の原因となっている子宮筋腫を切除するには
体内に一定の血液量が必要だったために
続いている出血量を上回るペースでの輸血が必要で
大人一人分の血液に相当する
4リットルもの輸血を行ったあと
そのまま子宮筋腫の切除手術に臨み
わたしはなんとか
一命をとりとめることができたのでした。

History13
光の存在として
まっすぐに生きる

手術を終えて、目を覚ましたとき
集中治療室の壁にかかった十字架のイエスさまが
まるで待っていてくださったかのように
わたしを静かに見つめておられました。

救急搬送されるときに
いくつかの病院に断られて
最終的に受け入れてくださったのが
カトリックの教会が運営する病院だったのです。

学生のころ
「灯台の光となれますように」と願い祈った
あの時の想いが鮮やかによみがえりました。

わたしはこれまでずっと
誰もが光り輝く存在であり
「みんなが主人公」と謳ってきたけれど
肝心のわたし自身が主人公となれずに
周りの要望に振り回されてきたのかもしれない。

けれどそれは
決して周りに責任があったのではなく
わたし自身がわたしを主人公として
大切に扱ってこなかったから。

あるとき夜勤の看護師さんが
わたしの髪を洗ってくださいました。

指一本まともに動かせず
感謝の言葉を伝えることもできないわたしを
まるで神さまに触れるかのように
大切に、丁寧に洗ってくださるその手の温かさに
涙があふれました。

集中治療室から一般病棟に移るとき
「大変でしたね、よかったですね」と
涙を浮かべて喜んでくださった看護師さんたちは
人々に生きる希望を与える
まさに「灯台の光」そのものでした。

わたしたちは多くの人の光に支えられて
この地球で生きているのだということを
知識ではなく魂の底から感じ取り
そして、再び生命をいただいたわたし自身もまた
光の存在としてまっすぐに生きていこうと
心を新たにしたのです。

History14
生命を見送り想いを引き継ぐ

身体の回復の様子を見ながら
少しずつ仕事に復帰したわたしは
睡眠時間や休日を削ってまで
すべてのご依頼に応えようとすることは止め
楽しく大切に本創りを進めるようになりました。

仕事を減らした分、
経営は厳しい状況となりましたが
より良い本をより多くの皆さまにお届けすることで
しっかりと利益を出していくことができるよう
試行錯誤を重ねながら数年がたった2018年の夏
今度は、
ほぼすべての書籍の印刷を担当していた父が
体調が良くないということで検査を受けたところ
ステージ4の咽頭がんと
診断されてしまったのです。

父自身の努力はもちろん
多くの先生方が親身になって
回復に向けて手を尽くしてくださいました。

けれど、がんの進行は予想以上に早く
人体の生命線である気管や
食道を塞いでしまい
4か月後の2019年1月
奇しくもわたしがお世話になった病院の緩和病棟で
多くの皆さまに支えていただきながら
家族そろって手をつなぎ
優しい時間の中で、
父は天国へと旅立っていきました。

わたしが幼いころから本が好きだったのは
読書好きの両親の影響でした。

父が実は出版を志して印刷業をはじめたこと
でも、インターネット環境もない40年前に
地方で本を創り販売していくことは難しく
やがて普通の印刷物へとシフトしていったことを
知ったのは数年前のことでした。

致し方ない事情があったとはいえ
突然母子で戻ってきて面倒ばかりをかけて
申し訳ない思いもあったわたしは
思いがけず父の夢をも叶えられたことに
なんともいえず嬉しい気持ちになったものです。

わたしが編集し、母がデザインして父が印刷する。
そのことをとても自慢げに話していた父。

根っからの仕事人間で
わたし以上に休むことなく
大きな印刷会社と遜色のない本を創ろうと
日々様々な工夫や研究改良を続け
夜には晩酌してから、
また工房で印刷をしていた父。

そんな父の想いと力強い支えがあったからこそ
わたしはここまで進んでくることができました。

お父さん、ありがとうございます。
あなたの娘に生まれ
あなたの想いを引き継ぐことができて
わたしは本当に幸せです。

History15
それでも、
本を創り続けていきますか?

父ががんの告知を受けてからは
ほぼすべての仕事がストップしてしまうと同時に
すべての判断が
わたしに委ねられることになりました。

いまの企業規模から考えると
金額の大きすぎる借入金の返済を抱えながら
経営を続けていくことは大変な困難が予想され
長くお世話になっている会計士さんからは
計画的な倒産も視野に入れたほうが良いだろうと
アドバイスをいただくほどの状況でした。

きれい・ねっとの書籍製作は
両親が長い時間をかけて作りあげてきた
ビジネスモデルありきのものであり
それができなくなってしまうということは
売上が立たなくなってしまうことを
意味していたのです。

これまでのわたしは
自分の強い希望というよりは
ある意味周りの状況に流されるようにして
その中での最善を精いっぱい生きてきました。

そこには完全な自由はなかったけれど
逆に言えば
いつも守られていたとも言えるのかもしれません。

それがいま、
本を創るための整った環境を完全に失った状態で
つまり、もはや何の助けもない中で

さあ、あなたはどうしますか?
それでも、本を創り続けていきますか?

そんなふうに自分の意志を
覚悟を問われているように感じられました。

毎日毎日、それこそギリギリのところで
経営の舵取りをしながら
瞑想し自分の奥深くに問いかけ続けました。

この星の幸せな未来を
多くの人たちと一緒に創っていくために
わたしは表現を続けたい、本を創り続けたい。

もしもそれが
わたしの表面的な欲望ではなく
魂の奥深いところからの
願いであり祈りであるならば
きっと道は開ける……

いえ、わたし自身が道を開くんだと
そう決めた時、
目の前に広がるすべての景色が一変しました。

History16
幸せな未来を創る生き方

わたしの想いを素直にお伝えしたところ
なんと発刊予定だった書籍のすべての著先生方が
状況を理解し出版時期の延期を
快く受け入れてくださいました。
また多くの読者の皆さまが
きれい・ねっとを信頼し
応援し続けてくださいました。

信頼できるパートナーやスタッフさんにも恵まれ
これまで大切にしてきた想いはそのままに
一人で背負うのではなくチームを創り
一冊ずつをプロジェクトとして進めていくという
新しい本の創り方を構築し、
本創りを再開することもできました。

さらに今後は
電子書籍やメルマガ、さらには漫画化など
さまざまな表現媒体を
それぞれの特性を活かしたかたちで
企画制作していこうと準備を進めています。

コロナ禍もあり、
もちろん、まだまだすべての流れが
順調というわけではなく
不安がまったくないと言えば嘘になるでしょう。

けれど、わたしはいま本当に幸せです。

どんな人であっても生きているかぎり
人生、一寸先は闇なのです。

過去を悔やむことなく
未来を恐れることなく

次々と起こる予想外の出来事を
どのように感じ、どのように受けとめ
そして、どのように動くのか

そのひとつひとつを誰かに委ねることなく
自分自身で考え、決めて、行動していくこと。

それこそが、幸せに生きること
「未来を創っていくこと」に
他ならないと思うのです。

History17
この星の 未来を創る 一冊を

「相似象」という言葉をご存じでしょうか。

ごく簡単に、またやや私見も交えて説明するならば
地球上、あるいはこの宇宙における
様々な現象のパターンは
俯瞰してみれば大小問わず共通しており
あらわれる事象は
共時性(シンクロニシティ)を持ち
似通っているという概念です。

この概念を知った時
個人的なことに過ぎないと思ってきた
わたしの人生の出来事も
もしかすると、ご縁のある皆さまには共通項があり
お役に立つところがあるかもしれないと思い
こうして振り返り綴ってみることにしました。

そして、こうして
すべてを書き終えようとしているいま
以前、わたしが講演のために書いた
これからの大きな時代の変化に伴う
わたしたち人類の「進化」の道のりにも
この「相似象」が見られることに気づいたのです。

「わたしたち人類はこれまで
 わたしたちを守ってくれる存在であった
 宗教上の神様や時の権力者といった
 力のあるものに
 頼り求めることで生きてきました。

 そして、彼らの決めたルールに従い
 お金に代表される、
 見えるものばかりに価値を見出し
 表面的には愛や平和を謳いながら
 多くの生命を犠牲にして
 比較や競争、争いを
 長く続けてきてしまいました。

 けれど、そんなことはもう止めたい。

 いま多くの人が、
 きっとあなたも
 そう感じているのではないでしょうか。

 自然の、宇宙の一部であるわたしたちが
 新しい時代を創り幸せに生きるには
 真実を外に求めることを止めて
 自分の内にある見えない世界
 すなわち魂に目を向け
 そこにある
 神性とも言うべき本来の輝きに気づき、
 そのエネルギーを発揮させればいい。

 深い真理を示す
 多くの作品に出逢い編集させていただく中で
 わたしたちには、それができるということ
 だからこそ、その方法を指し示す言葉たちが
 いま続々と世にあらわされているのだということ

 そして、それこそが
 わたしたち人類が新生地球をともに創り
 歩んでいくための「進化」への道のりなのだと
 確信するようになったのです」

大きな時代の変化を目前にして
わたしたち一人ひとりは
何をどうしていけば良いのかと考えたとき
あまりにも無力な自分に
途方に暮れてしまうばかりかもしれません。

けれど、
そんなわたしたち一人ひとりの人生の集合体が
地域であり、国であり、
そしてこの星、地球なのです。

だから、誰かのことではなくて
生きてある、いまこの時の自分の想いを大切に
いつか光の世界へと還っていくその瞬間まで
人生という冒険の旅を
心いっぱい楽しんで生きていくこと。

それこそが、
それだけがすべての答えなのだと
わたしは確信しています。

まるでわたしとともに歩むようにして
ここまで読み進めてくださったあなたには
きっともう、それができる準備が整っています。

大丈夫、あなたは一人ではありません。

わたしはもちろん
想いを同じくし、
ともにこの時代を生きる仲間とつながりあって
それぞれがそれぞれの「灯台の光」となり
この星の未来を創っていきましょう。

「この星の 未来を創る 一冊を」

きれい・ねっとの
そして、あなたの冒険の旅が
輝きに満ちたすばらしいものでありますように
心より願い祈っています。

2020年12月22日 風の時代の始まりの日に
数限りない奇跡の連続のうえにある
あなたとのご縁に心からの感謝をこめて。

きれい・ねっと代表
山内 尚子


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紙の書籍、デジタルメディア、リアルな出逢いの場
それぞれの特性を最大限に活かして
あなたにいま必要な言葉たちをお届けします